城山公園は高浜町の名勝「明鏡洞」をはじめ、「城山」と「天王山」に遊歩道があり、芝生広場など、四季折々の楽しみ方ができる県内でも有数の公園です。この「明鏡洞」を含む「八穴の奇勝」は、室町時代将軍足利義満が応永11年(1404)に見ていて、早くから名勝と知られた所です。
その城跡は、この城山公園のすべての範囲にあった平城であります。「常田文書」に「逸見駿河守八穴山に城御築なされ、永禄8年(1565)なり、天正9年まで17年居城」とあって、逸見昌経によって築城されたことを伝えている。遺構は、一部石垣積みされた場所と、高台に本丸の痕跡が残されています。
永禄9年(1566)武田義統と息子元明との確執に昌経は、元明に加担し義統と一戦を交え、逸見軍は水軍をもって海上から小浜を攻めた。義統軍は、守護被官を配して防備を固め、山県秀政や桑村九郎左衛も水軍を組織して久手崎で合戦となり、逸見河内が討ち死にしたとある(桑村文書)。
また、逸見氏は永禄11年(1568)11月、志楽庄住人粟屋右馬助と吉坂で合戦、同月、石山城武藤友益と合戦し勝利しています。元亀元年(1570)昌経は、若狭に入った信長を熊川で出迎えて朝倉攻めに参加、天正3年(1575)越前一向一揆攻めには水軍をもって参戦しています。同5年には京都在陣、6年正月には安土城、同9年2月の信長馬揃いには、逸見昌経は一番衆として参加しています。このように信長の与力として活躍した昌経は、旧領5千石、武藤跡3千石、計8千石の石高を所領したが、同年4月16日病死してしまいます。
この昌経没後は、その後丹羽長秀に属した溝口秀勝(新発田藩主)が、さらに堀尾吉晴(出雲国冨田)、浅野久三郎、木下利房(備中足守藩主)、津川一義が代々城主となりました。これらの武将は、その後各地の城主として出世しており、いわば高浜城は出世の城であります。寛永11年(1634)藩主として酒井忠勝が小浜に入部し、小浜城を築城すると高浜城は廃城となりました。
【標高】100m
【遺構】山城は東西約100m、南北約50m
城郭は、城山を本丸とし、二の丸・三の丸・藪の丸合せた約6万2,400㎡で現事代区域までの範囲と推定される。
【築城】永禄8年(1565)
【城主】逸見氏(逸見昌経)
【廃城】寛永11年(1634)
若狭・高浜城は、福井県大飯郡高浜町にある平山城(海城)です。
日本海の高浜湾に着き出した、小さな半島の先端に築かれています。
最初の築城は、戦国時代の1565年で、逸見昌経(へんみ まさつね)氏が築いたとされます。
逸見氏は甲斐源氏の庶流であり、若狭守護で後瀬山城の武田信豊に仕えていました。
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